先週の土曜日にアップされた東葛人さんの「梅雨時ポタ」のエントリーにコメントさせていただいたところ「そう言えば、増尾にも立派な茅葺の民家がありましたよ。」とのこと!「え!!『そう言えば』じゃないだろぉ〜!!これは聞き捨てならん!!」と再度コメントさせていただきました。そうしたら「茅葺の民家がなんと2棟並んでいました。」ですって!!パンチを二連発くらわされてフラフラ状態(苦笑)。それで木曜日にアップされたエントリーを読んだら、何と野馬土手まで見つけたと言うじゃありませんか。エントリータイトルの「\(^○^)/」の顔文字は勝者の証か?(爆)
食いつきネタを小出しにされて完全にノックダウン。参りました。アルプスルートのルート地図を印刷して行くっきゃないでしょ、これは。
今日の相棒はMTBです。
それで、今回はそれ以来となる増尾訪問です。今回は増尾駅の東側になるのですが、行ってみると、なんだ良いところではないですか(喜)。たった一度の体験だけで、ことの善し悪しの全てを決めつけるの良くないことですね。それに、西側が苦手なら東側はどうなんだ、となぜ考えなかったのか。航空写真を見てみると、雑木林がたくさんありそうでよさそうなのに、ふーんとしか思いませんでした。決めつけはいけないという教科書に出しても良いような典型例です(苦笑)。
増尾ではなくて、豊住4丁目にある野馬土手ですが、ここも自転車に乗りはじめて間もない頃、確か当時は自宅から江戸川CRに出るのに最短ルートはないものかとこの辺りをうろついていたのですが、そのときに迷い込んだことがあります。当時は野馬土手の存在すら知らなかったものですから、良い感じの雑木林だなぁ、としか感じていませんでした。それが野馬土手だっただなんてビックリです。
柏駅前からレイソルサッカー場に延びる所謂「レイソル通り」もかつて野馬土手があった名残です。よく見ると、中央1丁目の辺りでは、そのレイソル通りと平行している道路がありますが、これと同じです。そして、南柏の「日本一の野馬土手」から南に延びる2本の道路。柏市と流山市の境界でもあることから、かつての野馬土手の存在がそのまま行政の境界になってたことを示しているという貴重な道路です。
それらと全く同じなのに、これまで「変なのー」としか思わなかったとは、経験から物事を分析する能力が完璧に欠落しているとしか思えないです(苦笑)。
豊四季というと、柏駅から野田線で大宮方面に向かった最初の駅。こちらは新柏方面です。どうも位置的に離れていて違和感があるので、地図で調べてみると豊四季って凄く広く、今まで知らなかったのですが南柏駅のすぐ近く、つまり「日本一の野馬土手」があるところも豊四季です。そして、国道6号や常磐線を挟んでこの豊住の野馬土手があるところは豊四季の飛び地になるのです。(地図をズリズリ動かしてみてください。)
って、.....おぉ!!豊四季といえば、明治時代の4番目の開墾の地であることを示す地名!その地名の境界に野馬土手があるということではないですか!ついに開墾の歴史と野馬土手とが、21世紀のいま、ばしっと結びつきました!これって、感動ではないですか!このエントリーを書いてて気づきました(喜)。(え?遅すぎ?)
野馬土手に熱くなってしまいましたが(苦笑)、さて、増尾の茅葺きです。
確かに2棟並んでいましたが、残念ながら2棟を一緒に写せるスポットがありませんでした。立派なお宅でちょっとビックリです。
それにしても、柏市には、文化財にもなっている旧吉田家や旧手賀教会堂、それに神社仏閣を別にしても、僕の田舎の徳島県西部でさえ見かけることの難しい現役の茅葺きの民家がたくさん残っていることに驚かされます。
僕が知っているだけでも、旧沼南町に3軒、旧柏市内に限っても2軒(増尾と篠籠田)になりました。ところが不思議なことに松戸市や流山市で茅葺きの民家を見かけたことがありません。もしかしたら松戸市や流山市では茅葺きの民家は皆無になってしまったのでしょうか。我孫子市にもありそうなものですが、文化財の小熊邸以外見たことがないです。ありそうな気がするのですが、僕の走っているところが悪いのでしょうかねぇ。
ってなわけで、該当地域で茅葺きの民家を見かけた方はどうかご一報を(笑)。あ、ヒントだけでいいです。捜す楽しみが無くなっちゃうんで(爆)。
今日も、楽しかったですっ!
[撮影場所:柏南高校の裏]




今回の記事とても面白かったです。
野馬土手は開墾地の周りにあったという説ですか。
しかし疑問なんですが、IKAWAさんが豊四季に入植したのが明治時代と書かれていますが、野馬土手の方はもっと昔からあったのではないでしょうか?
それから明治時代に小金牧はまだ使われていたでしょうか?
そうだとすると、野馬が放されている小金牧をよけて入植、開墾したと考えた方がいいかもしれませんね。
それとももう野馬土手は使われて無かったのだけど、農地を広げていったら邪魔だったからそこまでで広げるのをやめておいたとか。
もしくは国の方でちょうといいから境界線にしたとか。
そんなことを色々考えると面白いです。
野馬土手を地図に示していただいて2本の道路が並行している様、良くわかりました。
野馬土手は泣いているには全体の地図なんかも載っているんでしょうか?
そういうのがあると楽しいですね。
面白く読んでいただけて良かったです。久々に熱くなってしまってしまいました(笑)。
野馬土手というのは元々、江戸幕府の放牧場(小金牧)から幕府所有の野馬が逃げ出さないように囲んだ土手です。なので、幕府がなくなった明治時代になって、放牧地だった野原を開墾を行ったのではないかと思います。では、どこまで開墾するかという話になると、良い目印となる野馬土手までを開墾してみようという結論に至るのは想像に難くありません。そうして開墾されたのが豊四季だだったのでしょう。そうすると、結果的にいま現在豊四季の地名が残っているところに沿って野馬土手の名残が残っている、つまり開墾や開発から運良く取り残されているのではないかと。
今日は、以前東葛人さんからいただいた野馬土手講座の資料を読みふけっていました。これを見ていると、柏市と流山市の境界が、野馬土手の存在の大きく影響を受けていることがよく分かります。
は!また熱くなってしまった(苦笑)。
「野馬土手は泣いている」に掲載されている地図ですが、「ありゃ分からないよ」というのが僕と東葛人さんの共通の認識です(笑)。僕は宝探しの地図と呼んでます(爆)。
茅葺の民家、発見できてなによりです(笑)
ただ、「2棟を一緒に写せるスポットがありません」ですと!
私の記憶が定かならば、2棟をいっぺんに写せるはずです。
そうだとすると・・・(笑)
spiritさんとの野馬土手談義に、私も参戦させてください。
流山と柏の境界は、もうメッチャ入り組んでいますが、これって江戸の村々と小金牧との位置関係からでしょうね。
今の流山を構成する村々は、小金牧の中にも畑を持っていたようですので、必ずしも野馬土手が両市の境界ではありませんが。
野馬土手が泣いているを昨日我孫子のエスパで見つけました。
ちょうど東葛の本についてのコーナーが設置されていて色々置いてありました。
東葛人さんが買った城址の本や、EIJIさんが前に書いていた湧き水の本など。
野馬土手は泣いているの地図は確かに全然判りませんね。
IKAWAさん、このあたりの野馬土手の全体像を地図にあらわしてくれませんか?
当時の小金牧の様子と今の様子が現れてきたら面白いですね!
性格に言うと「2棟"だけ"を一緒に写せるスポットがありません」でした。どうしてもその茅葺きの間に一軒入って来ちゃうんですよね。って、うん??もしかして別の所!?
豊四季から南柏にかけての流山と柏の境界は、野馬土手がその境界になった可能性は高いです。でもそれ以外のところは必ずしもそうとは言えないですね。そうか。柏市の出来る前、村の境界が分かると意外と野馬土手との関連が見えてくるかも知れません。
おぉ、エスパの書店にそんなコーナーができていたですか。そういえば、最近本屋さんに言ってません。駅前に行くのが面倒なもので(笑)。
ふふふ、上野牧と高田台牧の野馬土手の全体像の地図を僕は持っているのです。以前東葛人さんからいただいた野馬土手講座の資料にちゃーんと入ってました。昨日はこいつとにらめっこしていました。
ところで、エスパで本はお買いになられたのですよね?